ロビンソン・クルーソー的な暮らしに多少の憧れがある
19年と10ヶ月ほど生きてきて初めてデフォーの小説、ロビンソン・クルーソーを読んだ。
ロビンソン・クルーソーは無人島に漂着してその無人島で二十数年ほぼ自給自足の生活を送る。
しばしばその生活ぶりが、当時(1700年代)のイギリスの中流階級の生活ぶりに意図せず立ち返っていること・主人公ロビンソン・クルーソーの資本主義的、帝国主義的思想が深く掘り下げられることもある。
今回はそんな深く専門的な話をするつもりもないしできもしない。
ロビンソン・クルーソー(以下ロビンソン)は無人島に漂着後、偶然にも付近に座礁していた船から銃や火薬、斧、布などの作製に高度な技術を要するものは確保していた。
しかし無人島から脱出するまで生き延びられるほど十分な道具は揃っていなかった。そこでロビンソンは様々な道具、それは簡単な棚から最終的には船まで自分の手で作る。
それはロビンソンに多くの時間が与えられていたから為せたことで、現代の私たちができるようなDIYとは大きく異なる労力を要する。
印象的だったのは革で傘を、しかも開閉できるものを作ったことだ。
ロビンソンは無人島漂着以前の生活でそのような技術を習得していたわけでもなのに作り上げる。
現在は傘の骨部分に金属製の部品が使用されているが、無人島には鋳造技術などない。そして骨に使えそうな材料で思いつくのは竹だろう。しかし無人島には竹が自生している描写はなかった。
おそそらくロビンソンが籠を作った際に用いたしなやかで堅牢な木材かなにかを使用したのだろうが、私には自分が到底そのような所業が為せるとは思わない。
ロビンソンの暮らしはそのような時間と知恵を十分に働かせて作ったものに囲まれていた。
また無人島の二人目の住民フライデーの登場までロビンソンは一人だけでその工作を続ける。
私はかねてから自分一人で何でもやりたい性格だった。しかし大抵それは時間と材料と金銭と技術の障壁で断念することが多かった。このうちのどれか1つでも十分にあれば満足のいく作業ができるのに...と思っていた。
そもそも私が自分のための生産的活動をやりたがるのは、それが工学に惹かれている自分のプライドの保護になるからであって、決して誰か他人の為ではない。
対してロビンソンには時間が大量にあった。それは現代においてはなかなか確保しにくいものだ。
私がロビンソンの生活に憧れを抱くのはそういった面なのだろう。
自分の必要とする物を自分の手で作り出す、生産的な生活。現代において、そのような生産的な活動を行える人間がどれほどいるだろうか。すくなくとも大学に私のまわりにはいない。
先述の通り、自身のプライドの為の生産であるから、作製した物のクオリティに庫どぁる事は無いだろう。ロビンソンも同様だった。出来映えは悪くとも実用的な物を作り満足していた。
私は多少の憧れと多少の物足りなさを感じながらロビンソンの暮らしを覗き見した。
完全にロビンソンの生活へ転化するのはもちろん嫌だ。できるだけ楽したい。
おいしところだけ取って生きたいなあ...