仮面ライダーフォーゼを見たから感想を書く
仮面ライダーフォーゼはあの福士蒼汰と吉沢亮が仮面ライダーを務めるイケメン力がトップクラスの作品ですね。
48話見終えた僕からすればフォーゼのデザインなんてかわいく見えるが当時はいろいろ言われたようで...
それは置いておいて、47,48話の感想及びフォーゼという作品自体に関して言いたいことを連ねていこうと思う。
まず最終回の一歩手前の47話。
ラビットハッチにレオが侵入し破壊する。レオ=立神と流星のアクションはかっこよかった。3割増しで吉沢亮がイケメンに見えた。
そして大杉先生が弦太郎にそのことを知らせ、ラビットハッチに駆けつけた弦太郎、ユウキ、賢吾はレオとサジタリウス=我望と対峙する。
賢吾は自身のコアスイッチの力で一時はレオとサジタリウスを退けるが、超新星の力で賢吾は消滅。
そして最終回48話
賢吾からの手紙を読み我望の欲望を阻止することを決意するライダー部。
しかしレオとサジタリウスの下に向かったのは弦太郎と流星の二人だけだった。
流星はメテオに変身しレオと戦い、最終回補正で負傷しながらもレオに勝利。なぜかレオはそのまま消滅。
弦太郎はフォーゼのコズミックステイツでサジタリウスとともにワープする。
移動先は体育館。そこにはライダー部が「我望からの卒業式」の準備をしていた。
なぜか変身解除する弦太郎。開式の辞とともに生身でサジタリウスに殴りかかる弦太郎。そして何故か圧倒する。最後は卒業キック授与、ライダーロケットドリルキックでサジタリウスを貫くとその勢いのまま体育館の床を削り取る。
負けを認めた我望は何故か弦太郎に許され、友達になるが、スイッチの影響で消滅へと近づいていた。
我望は最後の力でアクエリアスの力を使い、コアスイッチ=賢吾を復活させた。
最後は一話の弦太郎の台詞のオマージュする形で賢吾が登場し、宇宙キター!!!で締められる。
こういう泣かせに来る最終回は結構好きだが感情的になりすぎて内容があまり思い出せなくなるところがある。
ただ疑問なのは
・最終回で弦太郎は我望を許し、我望も弦太郎を受け入れるが、最終回までに我望の心境が変化するような描写がなかったこと。
という点。
我望はこれまでに賢吾父を殺めてまで自身の願望を叶えようとしていた。そして47話でもなんとしてでも「プレゼンター」に会おうとしていた人間が、力負けしてだけでそこまで心情が変化するか?
まあそもそも「人類を進化させる」という目的自体は悪ではないし、元はそこまで非情な人間でなかったのかも知れないが。
ちょっとしたモヤモヤ感は残るがそんなのは微少な物に過ぎない。無視できる。
仮面ライダーフォーゼから勝手に感じ取ったこと。
全体をとおして仮面ライダーフォーゼは「学園生活」「友情」というテーマのもとスト-リーが進行されており、その友情は最終フォームへの変身でも強調されていた。
如月弦太郎とライダー部、朔田流星と弦太郎及びライダー部との友情形成までのストーリーは、それぞれのもつ悩みを、弦太郎を初めとするライダー部が解決するという形で為されていた。
ところでゾディアーツがスイッチを渡していたのはなんらかの「悩みを持つ」生徒だった。ゾディアーツはその悩みにつけ込み、ある種の解決を提案する。
これはライダー部のやり方と対比されており、かなり序盤からゾディアーツスイッチとアストロスイッチを巡る対立が暗に描かれていたとも取れる。
最終回ユウキの「学園も宇宙もみんなみんな私たちは私たちの手でつかむ。」というセリフ。どこかオーズみを感じる。
仮面ライダーという作品はシリーズを通して自分の力で行動するという自主性を作中に忍ばせている。オーズではそれが強調されていたし、ぱっと思いつくのは響鬼なんかが分かりやすい。
子供向けの番組だが、大人が見てもその伝えたいメッセージ性、作品のドラマの部分で十分に楽しめた。
仮面ライダーフォーゼはコミカルな雰囲気の中に少しのシリアスが入り込む作品で、視聴後にはなんとなく爽快感のようなものも得られる、とても見やすい作品であった。