理系大学生の戯れ言

底辺理系大学生が書く戯れ言

僕がブログを書くメンヘラチックな理由

オタクはすぐ否定から入る。
なんて言われることも増えたが、僕はオタクでないがすぐ否定から入る。

僕の否定は周囲の事物、他人の行動、考えなどに及ぶ。もちろん否定的な感情を口に出すことは滅多にないし、あったとしても、その対象の行動が倫理的に否定されるべき行動のときだ。

いつ頃から否定的、というよりも穿った見方をするようになったのか覚えていない。僕には中二病の延長にあるような気がしてならないが、こうして歳を重ねた今、より論理的なひねくれ方、言ってしまえば「めんどくさい」人間になってしまった。

こうして捻れに捻れた僕は、自分すらも否定するようになった。ここでは自分が否定されるような人間かどうかは置いておく。

自分の為すこと言うこと考えること全てに否定がつきまとう。しかも自分からの。

ウィリアムジェームスは自己理解のために、主我(I)と客我(me)という概念を導入した。

主我が客我を認識することが自己認識の始まりなのだという。
ここではこの主我こそが自分を否定するものであり、客我が否定されているものだ。

「自分のことが嫌い」というメンヘラっぽいセリフだが、主我が客我の否定をしていると捉えることができ、それは自己認識の一つであり、何ら不思議なことではない。僕からすれば自己嫌悪のない人がいることのほうが不思議だ。

自分の為すことに対して否定的な僕は何をするにも大きなエネルギーを、そして大量の時間を使う。
このブログのその一つだ。

 

しかし僕は自分のブログの記事のほとんが嫌いだ。
ではなぜそのような記事を公開しているのかというと、それはその記事を書いたときの自分がそれを書きたいと思ったからである。

今言った「自分」は、今ここでこの記事を書く自分を主我とすると、客我にあたる。だが、記事を書いている際にはそれは主我であった。そのためその主我が記事を書き、公開したに過ぎない。
やがてその記事を書いた主我は客我となり、後に現れる新たな主我によって否定される。


僕がブログを書く理由はそこにあるのかもしれない。
僕は客我、主我には時間依存性があり、その変化こそがしばしば「気分屋」と呼ばれる性質に他ならないのだと思う。その変化を残したいという思いが強くあるのだと思う。