罪と罰:ラスコーリニコフの極まった内向性
おそらく多くの人がその名前は耳にしたことがあるだろう,ドストエフスキーの著書『罪と罰』
主人公,ラスコーリニコフは「ナポレオンなどの『成し遂げられる者』は,その行為の過程で罪を犯してもそれを咎められることもなく,自身もそれをなんとも思わない」という考えのもと,悪徳金貸しの老婆を殺害し,その場に居合わせた善良な老婆の妹さえも殺してしまう.
といった具合に物語が始まり,ラスコーリニコフ自身の罪の意識や自己認識が変化していくという作品だ.
ラスコーリニコフの思想は,物語中でポルフィーリー(予審判事;現代で言うところの検事)を通して間接的に述べられている.
『全ての人間が「凡人」と「非凡人」に分けられる…(中略)ところが非凡人は,非凡人なるがゆえに,あらゆる犯罪を行い,かってに法を越える権利を持っている.…』
ラスコーリニコフは自身が「非凡人」であることを確かめるためにも殺害したと述べる.
その一方で,ラスコーリニコフは,自身の学費を工面するために結婚しようとする妹,それに一枚かんでいる母親を気遣う一面を見せる.
老婆の殺害は,この結婚を阻止するために金を手に入れる必要があったからだとも述べている.
しかし,普通に考えてみれば,妹,母親を気遣うのであれば,殺害強盗なんてせずにまっとうに労働をすればよく,それが本来は最善手であるのだ.
また彼は老婆から盗んだ金を使うことなく,そのまま捨てているのだ.
このような彼の行動を見るに,ラスコーリニコフは自身のことを中心に考えていたのだろう.
妹,母親の感情,思想は彼の行動に何ら影響しないのだ.
そういった意味で,ラスコーリニコフの内向性はかなり極まったものなのだと考えられる.
内向性はほとんどの人間がある程度は備えているもので,その大小は個人差がある.
私も同様に内向性が大きい人間であると自覚しているが,彼ほどの極まった内向性ではない.
実際に家族のことすら一面的に捉えてしまうほどになるのかはわからないが,少なくとも私がラスコーリニコフのようにならないとは断定できないのだ.
この小説が書かれたのは,1860年代のロシア.
かなり古い作品であるが,江川卓訳の出版は1999年とかなり新しく,文体も現代的であるためとても読みやすい.
小説というジャンルの誕生にも関わりのある作品である.いつしか,どこかのタイミングで読んでおきたい小説である.
20になる手前でこの作品に触れられたことをとても喜ばしく考えている.それほどの作品である.