理系大学生の戯れ言

底辺理系大学生が書く戯れ言

新鮮味の消失-歳を重ねるにつれ高まる「日常」感

しばらく引きこもっている内にいつのまにか外がだいぶ暑くなってきた。

春から夏へと季節が変わってきていることを感じさせる日々が続く。

 

ドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいる途中でふと一息つき、窓から外を眺めると大学生らしき男2人が話しながら通り過ぎた。

つい先月まではまだ肌寒い日が数日はあり、また、暑さもそれほどでなかったため、窓を開けることは少なかった。

そのためこの2人の声が部屋の中に入ってくることは、より一層季節が変わり始めていることを感じさせた。

 

話し声が聞こえたといってもその内容までは聞こえず、ただ「2人の人間が言語らしきものを口に出している」という程度の認知だった。

もっとも私にはこの2人の会話を聞く理由もなければそんな義理もない。ましてそんな趣味もないため、もしその声に注意を払っていれば内容まで聞き取れたのかも知れない。

 

ふと視界の端で何かが動いたことに気がついた。手元に視線を落とすと、窓の外を眺めるまで私が注視していたスマホがスリープ状態になっていた。

 

この機会に読書は中断して休憩しようと思いたち、右手を臀部のすぐ横につき膝を曲げ、それまで体重を預けていた壁に沿うようにして立ち上がった。

すると視界がいくらか狭まったようになり、体が傾くような感覚に陥った。それまでベッドの上に座っていたことや、今立ち上がったことさえ夢を見ていたかのように感じられた。

今までの人生で何度も経験してきた立ちくらみは、とりわけ夏や温度の高い場所で起こりやすい。さらに私は夏を感じることになった。

 

しばらくするとそのような新しい気分はなりを潜め、今まで通りの日常として認知が適応してくる。それは今までの人生で経験し、その記憶が鮮明であるからだ。

しかし何度も繰り返し経験しているはずのものでもしばらく時間が経つと真新しく感じる。そしてその感覚は年々薄く、そして短くなっていく。

 

わざと難しく表現したが、単純に飽きただけなのだ。

この飽きがどうして生じるのかはこのようなところからなのだろうと推測するが、その飽きを防止するためにはどうしたらよいだろうか。

 

それは慣れ親しんだ日常を非日常的なものとして表現し「自動化」した知覚を解除すれば良いのだ。

先ほど2人の男の話に耳を傾けるようなことは「自動的」に避けたが、それにあえて耳を傾ける。すれば先ほどの体験、いわば「慣れ親しんだ真新しい」体験を全く新しい体験に変えることができ、その体験をしばらくの間自分の中で反芻できるのだ。

 

この手法で感じる「真新しさ」はそれまでの「自動化」された日常を非日常的に感じ取れたからこそ生まれたもので、最初に述べた季節の変わり目での独特な感覚というものもこの産物であるのだ。

しかしその「非日常化された」ものでさえ、何度も経験することで「自動化」されてしまう。それは「非日常化」自体が「自動化」されてしまうからだ。

 

思い返せば、歳を重ねるにつれ、経験する物事の新鮮味は減っている。よく考えればそれは当たり前のようにも思える。

 

夏を「夏」という単語で単なる気候の特徴として評価するのではなく、その単語のもつ音の響きから、その周辺の事物まで、今まで注意してこなかったことを発見することで「自動化」による新鮮味の消失を防げるのではないだろうか。