夏休み記録7日目
6日目↓
今日は森鴎外のウィタセクスアリス(ヰタ・セクスアリス)を読んだ。いつか読もうと5月頃からずっとリュックの中に放り込んでいたためにちょっと本に申し訳ない気持ちになった。
ヰタ・セクスアリスは主人公の金井湛が自身の性欲の歴史を書き起こすという内容で、自伝的な小説となっている。僕は最初、あらすじを読んだときに、性欲に奔放な生活や性欲に溺れた過去のような内容を想像したが、実際は性欲を抑えた主人公が周囲の人間を分析するような内容であった。
かなり短い小説で、ページ数は100にも満たないため、早い人なら1,2時間もあれば読み終わる量だろう。ただ僕は人より本を読むのが遅い。
これは、一文読むごとに自分の考え、または経験と照らし合わせてあれこれと考えて、いちいちその表現に共感したり、新しい知見に興奮したりしてしまうからだ。そうして自分の考えがある程度現れて、言語化されるとそれを書き残し、再び本に目を戻す。そうすると読んでいた内容が半分程度しか思い出せず、仕方なく戻って読み返し、結果としてかなりの時間を要するからだ。
僕が小説に求めるのは奇抜で今までに類を見ない物新しさでもなく、また文章や言語の清廉さや美しさといった文学的なものではないかもしれないことに気がついた。僕は小説を読むことで新たに得られる単語やそれに付随した知識、また、自分の気が付かなかった新たな視点を知ることが好きなのかもしれない。言ってしまえば小説そのものよりも、小説を起点とした自分の知る世界の拡張が愉しいのだと思う(もちろん娯楽としての意味も十分に持っているが)。
とかキザったらしいことを書いたが、僕がこのヰタ・セクスアリスで考えたのは自身の性欲が…といったことで、とてもじゃないがここで書けるような内容ではない。ただ、性欲というものへの向き合い方が今までよりもよい方向に向かったような気がする。
では